何も考えてないのよ、私。知ってるでしょう?

第22部──フリーランスから会社員に復帰しました

2年連続のエアー出勤⑥

昨日、「東京マラソン2011」の抽選結果が電子メールで送られてきた。結果は、落選だった。一緒に応募したマラソン仲間も皆落選したようだ。今回も非常に高い倍率だったのだろう。以前、友人が出場した『東京マラソン』を観戦しにいったことがあるが、銀座や新宿の街を疾走する友人の表情はとても楽しそうだった。当時は、いつかは私も東京の街を走りたいと思ったものだった。

しばらくの間、マラソン大会に出場するのは見合わせたいと思っている。今はそのような時期ではないような気がする。週末などに川沿いをジョギングする程度は、いい運動になるので継続したいが、マラソン大会に出る気にはならない。たとえ今回の『東京マラソン2011』の出場権を獲得できていたとしても、ほかのランナーに出場権を譲っていただろう。

昨今マラソンは異常な盛り上がりを見せているといわれている。各所で行われているマラソン大会は、規模や大会の人気度によらず、応募者が殺到しているとのことだ。私の地元である横浜で開催される『横浜マラソン大会2010』も応募を開始してまもなく、定員に達したため募集を打ち切ったとの話を聞いた。男女問わず、様々な年齢のランナーが街中を走っている。私も最近、週末に川沿いを走っているが、以前よりもランナーの数が増えている印象がある。また、先週は主に東京都心にエアー出勤していたが、そこでも多数のランナーを見かけた。「市民ランナーの聖地」といわれる皇居周辺は、昼間からランナーの皆さんが汗を流していた。特に近くに職場があるらしい、若い女性が楽しそうにジョギングしていたのが印象的であった。ピンクのコスチュームに身を包んだ3名の若い女性ランナーが、スーツ姿でトボトボ歩く私を追い越して走り抜けたときは、思わず後を追って走り出したくなったものであった。

しかし、このようなマラソン熱の高まりは、一部の人間だけのものであろう。実際、周りで定期的にジョギングをしたり、マラソン大会に出場しているといった人は少数だ。むしろ、往来でランナーを見かけるたびに、「何で走るのか意味がわからない」「何が楽しいんだろうね」などとくさす人のほうが多い。私はそのような人の言葉を聞いて、「意味がわからない」という手垢の付いた意味不明な台詞を無批判に話すあんたの気が知れないと思ってしまうものであった。しかし、そのように言う人たちの気持ちはわかる。学生の時分、クラスメートの大半は長距離走を苦手としていた印象がある。なぜ、ハァハァゼイゼイ言いながら走らなくてはならないのか。球技や武道、ダンスは、相手を倒したり、ゴールを決めたり卓抜したテクニックを披露するなど楽しさが見出せるが、長距離走は疲れるだけだし、単調だ。比較的体力がある学生時代でそのような意見なのだから、20歳を過ぎて体力が低下し続けている社会人の人たちが、マラソンランナーを奇異な目で見るのには納得できる。

しかしながら一部の人たちは、過酷で単調なスポーツであるマラソンに没入している。なぜだろうか。手軽に始められるという利点はある。揃えるべき特別な道具はない。強いてあげるなら、運動着や運動靴だけだ。それにしても絶対に必要というわけではない。やろうと思えばスーツでもパジャマでも走ることはできる。運動神経が問われないというのも理由の一つかもしれない。時々悲劇的に運動神経のない人たちがいるが、その人たちはうまくできないということで、競技をすることから満足感を得られない。そればかりか、周りの人たちに迷惑をかけてしまうかもしれないといういらぬ気苦労をしてしまう場合がままある。マラソンは運動神経が比較的低い人でも取り組みやすく、集団競技でないため、個人で完結できるスポーツとして愛好されているのかも知れない。またマラソンは、練習を積めば積むだけ記録が向上するとされている。毎日走れば心肺機能も上がる。筋持久力も向上するので、あるレベルまでは右肩上がりで成績が伸びるはずだ。そのような「確かな手ごたえ」を感じることができるのも魅力だ。また一部のマゾヒストの人たちは、「疲れるだけ」ということに快楽を感じているのかもしれない。とはいえこれは「一部」ではないように思われる。私なども、適度な疲労を通り越して過度の疲労(苦痛)を感じることと、それからの開放を実現することに喜びを感じる。走ることで自分で自分を苦しめ、ゴールすることでその苦行から開放される喜びは、多数の人たちに快楽を与えているように思われる。また、走っているときは、当たり前だが、走ること以外にはすることがない。むろん、ランナーの中(特に年配の男性)には、ランニング中に放屁するなどしている人たちもいる。思いがけず8連発ぐらいし、自分自身で楽しみ、さらには周りのランナーを大いに楽しませ不快にさせることもある。しかし、それとて単発的な遊戯であり、基本的には走りに集中せざるを得ない状況である。一部のランナーは、走りながら色々なことを考えられるのが良いという。自分と向き合える貴重な時間を持てるのが魅力という人たちも多い。走ることによらず、体力を向上させると、普段の生活も改善される。フィジカルコンディションが向上することにより、日常生活が楽になるという考えは、ランナーでなくても同意するところだろう。

このように、走ることにより体力向上だけでなく、自己との対話も図れるというのがマラソンの魅力であり、多くのランナーがマラソンにのめりこむ理由であるとひとまずいえる、かのように思えるがそれは違うと私は、思った。もしそうならば、私はこれからも走り続けるし、各所で開催されているマラソン大会にも積極的に参加する。日々のトレーニングで自己練磨し、走っているときに自分と対話することにより、現在の苦境を乗り越える方策を案出しようと試みる。さらに、将来の夢や希望などを設定し、それに向かって勇躍することだろう。しかし実際にはそうはしない。それはできないからだ。なぜならば、私は無職であり、さらにいえばエアー出勤者だからだ。私のような人間がランナーでいることは難しいのである。見過ごされているようだが、このことは重要である。周りのランナーを見てほしい、よく観察してもらいたい。宵闇の中、街頭の光に照らされたランナー、土手沿いを力強く疾走するランナー、都心の街を満たされた表情で駆け抜けるランナー。彼らには共通点がある。分かるだろうか? もう一度身近にいるランナーたちの顔を思い出してもらいたい。……ね? そう、彼らは皆、勤め人なのである。

以前、『東京マラソン』の翌日、新聞記事に参加者のコメントが載っていた。私はそれを読んでおやっと思った。無職男性(確か50代)のコメントが私の目を引いた。
「フルマラソンを完走した。中略。今は無職で大変だが、明日からも求職活動をがんばっていきたい」
といったようなことをいっていたような気がする。新聞は、様々な人々(=困難な状況にある人々)がそれぞれの理由でマラソンに挑戦しており、マラソンを走りきることで、その困難をも乗り越えることができるといいたげだった。私はこの記事を読んで、この男性ランナーは「もぐり」だなと思った。求職者がランナーでいることは想像以上に困難なことだからだ。おそらくこの男性は、多額の退職金を手に入れてセミリタイアしたか、親から多額の相続を得たか、いずれにしても経済的にある程度余裕のある人だったのではないかと私は推測する。おそらく、就職する必要があまりないような人種の人であったはずだ。

私は今までハーフマラソンに数回、フルマラソンに1回出場し、どれも当時の自己最高記録かそれに近い好記録で完走した。最初にハーフマラソンを走ったのは確か5年前だったかと思う。以後定期的に参加している。しかし何度か、もうマラソンを止めようかと思ったこともある。そう思うのは、決まって無職の時だ。一般的には知られていないが、無職者(特に求職者)がマラソンを走るのは、定職者が走るよりも数倍難しいといわれている。練習などでランニングすることは、有職者も無職者もかわらない。しかし、これが大会となると話は変わってくる。走るのはどのランナーにとってもつらい事だ。暑さや寒さ、雨、風などの気象条件は誰にとっても同じだ。しかし、求職者には求職者特有の困難さがある。通常、マラソン大会は日曜日に開催されるものだ。当たり前だが、翌日は月曜日だ。月曜日は仕事始めだが、求職者にとっては関係のないことだ。彼らには仕事がないからだ。月曜日に出社する有職者は、走っている時に一度は考える、「明日仕事かよ。だるいな」と。私も何度も考えたことがある。しかし彼らは知らないのだ。「明日も仕事がない」と思う日曜日のあの悲惨さを。しかも、マラソン大会中にである。無職なのに、日曜日にマラソン大会に出て、ハァハァゼイゼイ言いながら疾走している自分の存在の不可思議さに耐えながらマラソンを完走するというのは半端な精神力では達成できない。
走っているときに、ふと自分が無職であることを思い出した瞬間の不安。そこから逃げ出したいがマラソン大会中なので、棄権するかゴールしなければ、その状況から逃げだせないという現実。なぜ自分は走っているのだろうか、とは大半のランナーが感じることだろうが、無職者が感じる「なぜ」という感覚は、有職者たちのものとは違うように思う。走っている場合じゃないだろうと突っ込まざるを得ない。

マラソン大会に出て走るというのは、ある種の特権者だけに許された行為であるように思われる。特権とは単に、「職を持っている」ということだ。仕事があるという些細なことが特権である、と考えるのは難しいと思う人もあるいはあるかもしれない。普通仕事ぐらいしてるだろうという突っ込みも聞こえて来そうなものだ。しかし、それは違うのである。マラソンは、富者のスポーツである。あるいは貧者が富者になるためにするスポーツである。マラソンブームを支える背景には、経済の豊かさが絶対に必要なのだ。一部では、「終身雇用」「年功序列制度」の崩壊、「成果主義」の導入、「世界同時不況」、「金融危機」などで、誰しもが安穏としてはいられない厳しい状況下にある、とされている。しかしながら、「明日会社が潰れるかもしれない」「近々リストラされるかも」といって震えている人がそんなに沢山いるだろうか。今日離職しても明日から所得を確保できるように抜かりなく準備をしているという人が何人いるだろうか。もちろんなかにはいるだろうが、大半はそのような「危機感」などとは無縁の生活を送っているように思う。本当にそのような不安定な状況にあって、暢気にマラソンなど走ってられるだろうか(いや、走ってられない)。経済不況、金融不安、財政破綻、少子高齢化、年金崩壊、雇用不安、孤独死、年間自殺者数3万人。暗いニュースはいくらでもある。しかしながら、そんなことはどうでもいいのだ。富者は、今日も走り続けるのである。そして、無職者は走ることを止めるのである。


率直に言って、そろそろランナー税の導入を本気で考えてみてもいいのではないだろうか。タバコや酒などの嗜好品に課税するのならば、誰が見ても明らかな富裕者=ランナーに対して課税するのは道理なのではないだろうか。ランナー税を雇用対策にあてない理由があるだろうか。そのようにして富の再分配をしないで平等な社会が実現できるだろうか(いや、できない)。
私は今後しばらくの期間、大会への参加を見合わせる。職業を手にしたら、マラソン大会への参加を検討するつもりだ。
せめて私が無職の間だけでも、ランナー税を導入してもらいたいものである。