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辞める気がないのにもかかわらず退職を告げることによって昇給・賞与・社長からの気遣いという「特権」を勝ち取ることで最強の社内ニートになることができる

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先日、劇薬を飲んだ。伝家の宝刀を抜いたといってもいい。諸刃の剣で社長を一刀両断した。要するに最終手段に打って出た。「会社を辞めたい」と告げたのだ。社長は「ちょっと待ってくれ」とぼくを慰留した。

予想通りの展開だ。なにしろ、会社にはぼくともう一人の社員しかいないのだ。どちらか一方が抜けただけで会社の業務は滞ることになる。社長が引き止めにかかるのは当然だろう。たとえ近年のぼくが抜け殻のようにうつろで、これ以上ないってぐらいの社内ニートでもだ。

退職を申し出ることは一つの賭けだった。何しろぼくは、次の就職先が決まっていないのだ。このままこの会社を辞めると無職になる。33歳、実家暮らしのぼくが無職になるということは、それはすなわち「エアー出勤」をすることになるということだ。また、あのタフな生活に身を投じるということだ。想像するだけで、絶望的になる。

しかしそこは流石にぼくも歳を重ねて、いろいろと学んだ。「仕事が嫌だから転職先が決まっていないのに辞めます」なんて、愚の骨頂だ。ぼくは賢者だ。そして「エアー出勤」のキツさは身をもって知っている。地獄の釜に自分から飛び込むなど、33歳の知恵者がするわけがない。

退職を申し出ることで、ぼくはある「特権」を獲得できると考えた。
それはすなわち、

  1. 昇給(2年以上ない)
  2. 賞与(2年以上出てない)
  3. 仕事量を少なくしてもらう(今も多くないが、さらに仕事を減らしてもらう)
  4. 社長から気遣ってもらう(めんどくさい仕事を振られなくなる、常に優しい言葉をかけてもらう)
  5. その他(毎日定時で帰る、有給をフルに使う、毎週月曜の朝遅刻する、仕事の途中で30分ぐらい外出して本屋で立ち読みしても怒られなくなる、嫌な仕事をやらない)

特に、3~5は重要である。これは噛み砕いて言うと、「駄々をこねる」ということと同義である。「ぼく、やりたくないんだもん」という権利を得るということである。仕事をやる気がない勤め人にとってはとても重要な権利である。
かつてぼくはこの特権を勝ち取ったことがある。2社目に勤めた出版社でだ。「特権」が付与されてから、1年間、ただひたすらに駄々をこね続けた。
今回も同様に成功するものと思われた。


ぼくの仕事は、編集という名の雑務だ。編集のほかに、在庫管理、営業、経理など小間使いのように働いている。小さな出版社には必ず一人はいる便利屋だ。ぼくが勤めてきた3つの出版社にも、そういった便利屋がいた。
このタイプの社員は、さまざまな業務をこなすが、広く浅く仕事をこなすため、専門スキルが身についていないことが多い。そして薄給で、安物のスーツを着て、うだつの上がらない30代男性というパターンだ。要するに、ぼくだ。

今の会社にはぼくのほかにもう一人社員がいて、その人はDTPを担当している。小さな出版社のDTP担当が往々にしてそうであるように、大体いつもパソコンに張り付いて、自分の仕事以外はできる限り関わらないようにするタイプだ。それでも専門的なスキルがあるため、社長には重宝される。

ぼくにしろ、DTP氏にしろ、どちらが抜けても会社にとってはそれなりに痛手だろう。
そのような最小の人員で会社を回していくのならば、会社は両名にそれなりの賃金を支払うべきだ。たとえぼくがやる気が微塵も感じられない社内ニートでも、だ。月給18万円は少し少なすぎる。

今の会社に入社して、4年8ヶ月が過ぎた。ぼくにとっては自己最長記録だ。今後もこの記録を破るのはちょっと難しいのではないかと思えるぐらいの圧倒的で前代未聞の大記録だ。今までの最長記録は、2社目に勤めた出版社で、そこには2年ぐらい勤めた。他の会社はおおむね、ワンシーズンかツーシーズンぐらいで辞めた。5日、2ヶ月、2ヶ月、4ヶ月、9ヶ月など。

いつしか、会社に入社したら、まず、退社日のことを想像するようになった。いつ辞めるか、それだけがぼくのモチベーションだった。月曜日の朝は憂鬱だが、土・日の予定を考えることでなんとかその週を乗り切れる。入社して退職日を想像するのはそれに似ている。ゴールが見えなければ走り出すこともできない。ゴールが30年後なんて、正気の沙汰とは思えない。

30年といわず、4年8ヶ月というのもまた気が遠くなる歳月だ。そして事実、ぼくは気が少々触れかけた。もちろん、ぼくはいつだってどちらかと言えば正常だ。完全に気が触れるなんてことはない。ただ、生気がちょっとばかり失われ、無気力状態に陥っただけだ。勤続記録の自己ベスト2年を超えたとき、ぼくはめでたく社内ニートになった。鼻や口やケツの穴から生気が漏れ出た結果だ。

しかしそれでも流石にぼくは、プロ転職家だ。無気力という泥沼にはまっても、虎視眈々と濁った目で、退職という夢をかなたに遠望していた。
退職するためには、転職先を見つけなければならない。ここ1年以上、ぼくは「リクナビNEXT」「マイナビ転職」「ワークポート」「テンプスタッフメディア」「テンプスタッフクリエイティブ」などをフル活用し、仕事を探しつづけた。

しかし残念ながら、転職先は見つからなかった。何が悪いかは、わからない。自己分析はしないし、自分に非がある可能性について考えたくもない。歳をとるということはそういうことだ。悪いのは自分以外の誰かであり、社会やシステムや政府など外的要因にこそ、問題があると考えるようになる。自分の側に非があると認める老人を、ぼくは見たことがない。ぼくが悪かったから改めると反省を口にしたぼくを、ぼくは見たことがない。


予想通り社長に慰留され、ぼくは内心でほくそ笑んだ。これで、少なくとも夏の賞与は出ると確信した。もう2年以上、賞与が出ていない。10万円ぐらい出たら、登山用のウインドブレーカーを買おう。昇給も期待できそうだ。1万円ぐらい昇給したら、スポーツジムに通おう。
やりたくない仕事を振られたら、「やりたくないもん」と言おう。ぼくに対する完璧な優遇政策を期待したい。今までもぬるま湯だったが、それ以上の完璧なぬるま湯につかることができる。無気力状態を打破するために必要なのは、今いる環境から飛び出すことではない。無気力状態をさらに極めるのだ。

しかし翌朝、耳を疑うようなことを社長が言った。
「7月で辞めていいよ」
「え?」。ぼくは周章狼狽してしまった。いったいこのおっさんは何を言っているのだろうか。自分が口にしている非道な言葉の意味を理解しているのだろうか。辞めていいとは何事だ。ぼくから辞めたいと言ったことを差し引いても、ちょっとそれはないのではないか。人道に反するのではないか。

ぼくは、頭をフル回転させ、現状を分析した。
これまで1年以上転職活動しているが、いまだに転職先が決まってない。退職まで1ヶ月しかない・・・・・・。
ここからわかることは次のことだ。
「頑張れば2週間ぐらいで転職先が決まるかな」
本気を出せば。やる気を出せば。もっと頑張れば・・・・・・。
ぼくは、そう思った。いや、そう思おうとした。でなけば、こんな辛い現実を乗り越えられるはずがない。1ヵ月後に転職先が決まっていなかったら、「エアー出勤」だ。それは本当に勘弁してほしい。

とりあえず、今日(7月3日)は、会社を休んだ。有給を消化したいということもあるが、まずはコメダ珈琲でコーヒーでも飲みながら現状を分析し、ゆったりとした気分で現実から目を逸らすことに全力を注ぎたかったのだ。
ゆっくり目を閉じる。カナル式のイヤホンを耳に挿し、外界の音を遮断する。音楽はいらない。コメダ珈琲の「たっぷりブレンドコーヒー(520円)」を少しずつ口に含む。

いつもより苦く感じる・・・・・・いや! 苦くねぇ! うめぇ! コーヒー、うめぇ! 何も心配ねぇ! 将来なんてしらねぇ! 毎日コメダでコーヒーを飲んでやる。お得なクーポンを買おう。一冊で500円もお得になる。何が「7月で辞めていい」だ。7月31日なんて来ねぇ! 7月は永遠に続くはずだ! 7月31日なんて来ねぇ! 7月31日なんて来ねぇ! 7月31日なんて来ねえんだよっ!