「退職届」を出すのは難しい

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先週日曜日の夜にウイスキーのロックを呑みながら、「退職届」を書いた。

ウイスキーをなめながら、「退職届」の書き方をネットで調べた。

いくつか「退職届」の書き方の文案を見て、懐かしさが込み上げてきて、泣いた。

数年前、ジョブホッピングを繰り返していた時分、よく「退職届」を書いていた。

あのころ確かに僕は「転職」に全身全霊をかけていた。青春だった。

当時勤めていた会社や同僚や職場のことを思い出し、またひとしきり泣いた。ウイスキーをなめ、泣き、なめ、泣きを33回ぐらい繰り返した。

気持ちが落ち着いたあと、ネットで調べた文面を参考にし、便せんに「退職届」を書いた。毎度のことだが、とてもシンプルな文章だ。「私儀」っていったい何なんだろう。わからない。

封筒は白いものがいいと、退職マニュアルのサイトに書いてあった。手元に白い封筒がなかったので、家の近くのセブンイレブンに買いに行った。最近のコンビニは何でもある。

帰宅して、封筒に「退職届」と書いた。昔は「退職願」と書いた記憶がある。誰かに「辞表ではなく退職願だよ」とアドバイスを受けたからだ。しかし、今回見たサイトには「辞表」でもなく「退職願」でもなく「退職届」とあった。結局何が正解かわからない。

15日の月曜、定時を過ぎて、社内に社長と二人だけになった。「退職届」を出すのにはうってつけのシチュエーションだ。しかし、出せなかった。タイミングはあったはずだが、臆してしまった。結局その日は「お先に失礼します」と言って帰宅した。

翌日の晩も、帰る間際に社長と二人きりになった。「退職届」を出すということはまたしてもできなかった。年をとって、「退職届」が持つ重みがわかったからだろうか。かばんに忍ばせたたった1通の封筒を、すぐそばにいる社長に提出することが、どうしてもできなかった。若かりし頃にどのような心情で「退職届」を出していたのか、もう覚えていない。そのころも逡巡しただろうか。覚えていない。

しかし、「辞めたい」ということはできた。転職を考えている、環境を変えたいと。慰留された。何しろ社員は僕ともう一人の計二人なのだ。ほとんど社内ニート化しつつある僕ですら貴重な戦力だ。誰かが抜けたら、それなりに大変になる。

僕は立ったまま、自席に腰かけている社長の話を聞いていた。途中で疲れてしまった。立ち続けるのがしんどくなった。いろいろお互いに腹を割って話さなくてはならなかったのかもしれないが、足が疲れ、そのあとに友人と会う予定が入っていたため、面倒臭くなって「じゃあまた考えます」と言って、その場を辞した。

その週の金曜日に二人で夕飯を食べた。ものすごい勢いで慰留されるのかと思った。僕はてっきり待遇の改善、つまり給与激増の打診を受けるものと思っていた。以前別の会社で同じようなシチュエーションになった時、「月給3万円アップ」という高待遇を勝ち取った。その時は確かアップした翌月に辞めたが、3万円はでかかった。

今回二人きりの酒席で、そのような打診はまったくなかった。その代わりなぜか社長が昔話を延々繰り返し、最後の10分で、「うちの会社なら何でもできる!」と力強く無根拠に宣言された。

辞めることはすでに決めているから、待遇の改善を打診されても翻意はしなかったろう。それに、いまの月給18万円に多少上乗せされても、焼け石に水だ。しかし、多少のそういった打診があるかと思ってはいたので、肩透かしを食らった気分だ。代わりに「何でもできる!」と、ものすごい漠然とした幻の「やりがい」のようなものがうちの会社にはあると力説され、僕は脱力した。社長は悪い人ではないので、まあ別にいいけど。零細企業の社長は大変だ。

それで僕の方もわりと曖昧な感じで終始してしまった。社長の昔話を聞き、「何でもできる!」と言われて、殊勝な顔でうなづいていた。そしてまた面倒臭くなって、何も言わないまま、その酒宴は散会した。要するにどちらも、本質的な問題に触れるのを避けたということだ。実に「男」らしい。

今週になって、社長の中ではこの問題は解決したかのごとく、普通にいろいろと仕事を振られ、僕は少し当惑している。ただ一つ、よくわからない無意味な中堅作家の小説の原稿を読まされ、感想を聞かれたので、「こういった売れない作家が偉そうに取材費だ、打ち合わせ代などといろいろ請求して、売れないことを正当化するかのごとく書かれることに意義があると声高に主張して、結果、大量に無駄な在庫を抱えるのは零細出版社としては百害あって一理なしだ」というようなことを僕にしては珍しく言った。僕はたぶん疲れていたのだろう。気持ちがささくれ立っている。

社長は悲しそうに、「じゃあそれは俺がやる」と言って原稿を僕の手元から持って行った。

僕はいらぬことを言ったかなと少しだけ後悔した。そして、終わりは確実に近付いているなと思った。

  

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