転職活動を極めた私はあたたかい理想郷にたどり着いた

午後4時15分、私は神奈川県大和市にいた。午後5時から巣鴨にある出版社の面接を受ける予定が入っていた。私は小雨が降る中、傘もささずに鉛色の空を見上げていた。

 
 
今日は会社を早退した。
午後2時に会社を出た。当初、昼には会社を退社する予定だった。事前に社長から半休の許可を得ていた。しかし、頼まれた校正の仕事が終わらず、結局2時まで会社に留まってしまった。
面接は5時からなので、どうせ早く退社してもコーヒーショップで時間を潰すだけだ。それならば昼だろうが2時だろうが大差ない。
巣鴨までは30分ほどで着く。とりあえず会社近くのベローチェでサンドイッチでも食べながら2時間ほど時間を潰そうと思った。
水道橋のベローチェに行くと、いつも昼以外はガラ空きのはずが、今日に限って混雑していた。冷たい雨を凌ぐためなのか、勤め人たちがたむろしていた。
それを見て私は面倒臭くなり、入店を諦めた。
白山通りに出て神保町交差点へ向かった。雨の中歩くのはひどく寒かった。5分ほどで神保町近くのベローチェに着いた。
外から店内を見ると混雑してはいるものの空席はあった。私は折り畳み傘をたたみ、ビニルの傘袋を1枚引き抜き、濡れた傘を収納しようとした。しかし、手がかじかみ、ビニル袋と傘をうまく扱えなかった。私はイラついた。30秒ほど格闘し、投げ出した。
傘袋の入り口をもうちょっと大きくしようと思わんかねと私は袋メーカーに罵声を浴びせたくなった。あれはどう考えても折り畳み傘に対応していない。何がおもてなしの日本だ。傘袋一つまともに作れないじゃないか。
私は傘袋をゴミ箱に投げ入れ、カバンからレジ袋を出した。私はいつも会社に折り畳み傘を持って行くときは、レジ袋も一緒にカバンに入れる。通勤電車の中で傘をカバンに入れるためだ。
最初からレジ袋を出せばよかったと毒づき、ベローチェを後にした。イラつきの原因は、傘袋メーカーとベローチェの双方にあると思ったので、しばらくはベローチェを利用するのは控えようと誓った。
すぐ近くのドトールに入り、サンドイッチとブレンドコーヒーを注文した。店内は混雑しており、2Fの喫煙ルームしか空いていなかった。仕方なく煙の立ち込める室内に入り席に着いた。
凄まじく煙い中でサンドイッチを食べ、コーヒーを飲んだ。
私はひどく疲れていた。たかがコーヒーを飲むために、だいぶ歩き回った。それにあの傘袋だ。私は怒りが収まらず、傘袋メーカーにもっと間口を広げやがれとクレームを入れようとしたが、メーカーがわからず、なくなく振り上げた拳を下ろした。
煙かった。ぜったいに服にタバコの臭いがつく。
私はここでミスを犯した。この後私は面接を受けに行く。そこで体からタバコの臭いがしたら、面接官の印象を悪くしないか。喫煙者への風当たりが強い昨今、タバコを吸うと思われたら、確実にマイナス評価だ。
 
 
今日はアンラッキーな日だ。雨の中コーヒーショップを探し回り、やっと入店できた店でタバコの煙にまかれている。
この臭いは帰宅してリセッシュしなければ、到底落とせないほどの強い臭気だ。
その時私の脳裏に一つのアイディアが浮かんだ。魅力的だが、危険な考えだった。かつて何度も思い浮かび、実行し、そしてその後必ず自己嫌悪に陥った、あの悪魔的なアイディアだ。
 
 
私は思った。
今日は面接行くのやめておこうかな、と。 
考えれば考えるほど、魅力的な案だった。今日は面接日和では、決してない。まず何より、寒すぎる。血行が悪くなり脳内に血液が回ってない気がするのだ。雨もいけない。ハレの日に雨は似合わない。そしてタバコの臭いだ。面接官に喫煙者と思われたくない。なんといっても私は非喫煙者なのだ。誤解されてはかなわない。
それに、よくよく考えれば、私はもう出版は嫌なのだ。この業界に未来はない。少なくとも私のような万年小間使いが生き残れるほどあまい世界ではない。ならば志望業界の再考が必要だ。そうと決まったら、今日5時からの面接はキャンセルの連絡をして……。
しかし本当にそれでいいのだろうか。もう少し考える必要があるのではなかろうか。私はもう33歳だ。仕事についてもっと真面目に考えても良さそうだ。いったい何年同じことをしてるのだろう。ここで面接から逃げるのは、敵前逃亡だ。一つの可能性を自らの手で摘んでしまう愚行なのではないか。受けるだけでも受ける必要があるのではないか。
 
 
午後4時20分だった。私は大和市にいた。相変わらず雨の中、傘をささずに虚ろな目で中空を見上げていた。
ふと横を見ると電光掲示板に、「42.1℃」という数字が見えた。適温だった。冬の雨の中、露天風呂に入るのは気持ちがいい。平日のスーパー銭湯は最高だ。かつて、何年か前にエアー出勤していた時も、今日と同じようにスーツでこのスーパー銭湯に来たことがあった
変わらないなと思った。この露天風呂も、私も。
1ミリも成長していなかった。私はあれから5歳歳を食った。相変わらず、嫌なことから遁走して、スーパー銭湯に逃げ込んでいる。
露天風呂に備え付けのテレビが夕方の情報番組を映していた。私の入っている湯からはモニターが見えなかった。音声のみ聞こえた。アンガールズの田中氏が女性ボクサーと戦うという、体を張った番宣をした、とアナウンサーが喋っている。
田中氏でさえ頑張っているのに、私ときたら。
 
 
面接はキャンセルした。仕事が忙しくて今日は抜けられそうにないと電話した。
担当者はとても残念そうだった。また日程を調整してくれるという。私は少し後ろめたくなった。こちらからまた連絡しますと言って電話を切った。
 
 
とにかく、湯が気持ちいい! 白濁した温泉が何もかも忘れさせてくれる! 鈍重で臆病な私を優しく包んでくれる! これで良かったんだ! 雨だしさ! 寒いしさ! タバコの臭気が染み付いてたしさ! 出版はもう違うかなって!
 
 
今日は面接日和ではなかったのだ。
今日は、温泉日和だったのだ。
しかし、湯に浸かりながらも、ふとした瞬間、面接をキャンセルしたことを思い出し、気分が沈鬱になった。そんな時は両掌で湯を掬い、顔を洗った。何べんも狂ったように、顔を洗った。そうすれば、今日の、いやいままでのすべてのミステイクを洗い流せると思ったのだ。
 
 
私にしては長い時間湯に浸かり、最後に水風呂に入って、風呂を出た。
休憩室で、ドデカミンストロングを飲みながらぼうっとしていた。面接のことは考えないようにした。湯の気持ちよさだけを思い出し、炭酸飲料で喉を潤して、仕事や将来などの雑念はすべて頭の中から振り払った。
午後6時20分の送迎車に乗って田園都市線あざみ野駅に向かった。気分は最高だった。田園都市線の電車内で勤め人3人が談笑していた。その中の一人が足の怪我が原因で正座ができないと言っていた。接待の時に、客先から無礼なやつと思われたらかなわないと愚痴をこぼしていた。勤め人は、大変だなと思った。
 
 
自宅への帰り道、突如、大きな不安に襲われた。将来への焦燥だ。私はいったいこれからどうすればいいのか。転職を希望しつつも面接をキャンセルするという不可解な行動を思い出し、温泉でリフレッシュされた私の理性を強く揺さぶった。
おい、俺はなんで今日面接に行かなかったんだ?
 
 
晩に、いいちこのお湯割りを飲みながら、リクナビネクストとマイナビ転職で漫然と求人検索した。
登録している条件でひとしきり仕事を探した。編集職の求人を見ても気になるものは一つもなかった。もう心の底から興味が失せていた。
ふとキーワード検索をしてみようと思った。検索窓に3つの単語を入力してみた。
「スーパー銭湯 入るだけ 正社員」
検索結果は予想通り無慈悲なものだった。
その結果を見て、私にできることはもう何一つ残されていないと悟った。
 
第21部完