働かないって、ワクワクしない?

というのを読んでいる。

むろんワクワクする。

VOICE新書 働かないって、ワクワクしない?

大人になると報酬でモノを買うために、働くようになるという。消費の為に働くのは良くないという。
小さい頃からモノを買い与えられ、モノが好きになる。大人になってモノをたくさん買うために働き、モノを運ぶために車を買い、モノを置く家を買う。モノを買い続け、家が手狭になり、さらに大きな家を買う。大きな車も買う。すべて購買が中心の人生になる。
ぼくも確かに思い当たる。登山道具を買ったり、フットサル道具を買ったり、本を買ったり、行楽地へ出掛けたり、外食したりする。お金を使うことで、満足を得ようとする。消費こそ幸福の尺度だ。
 でも、子供の頃はそうじゃなかったはずだ。消費が最大の目的になってしまったのは、いつからだろう・・・・・・。
 
お金なんてものはあってもなくてもいつでもぼくらを悩ませるとサリンジャーが言っていた気がするが、大人になるとほとんどの場合貧乏に悩むことになる。
ぼくは昨年、薄給を嘆きあろうことか「副業」をしてしまった。校正の仕事だ。300頁の書籍を校正して3~4万円の報酬を得た。1年で11万円ぐらい稼いだ。土、日に働くため余暇が潰れる。貧乏暇なしだ。その金でぼくはモノを買い、そしてメシ食った。休みの日は外で美味い物を食う、旅先でご当地グルメに舌鼓を打つ、金曜の夜に酒を飲みジャンクフードを食べる。美味い飯を食うために働いているようだ。
 
子どもの頃はそうじゃなかったはずだ。
例えば小学生の時分、ぼくはよく缶蹴りをした。友達の榎本君ちのアパートの周りで、暗くなるまで狂ったように遊んだ。
隠れているときのワクワク感をいまもありありと思い出せる。下腹部がキュッとしてションベンが漏れそうになったことが何べんもあった。気配を消した鬼が、いまにも視界の外から現れるのではないかとドキドキしていた。
息を潜めて周りの状況を把握しようと集中した。そのうちに、ひどい空腹が襲ってきた。食べ物なんてなに一つない。空腹をやり過ごしつつ、鬼の動静を伺う。自分のことは棚に上げ、仲間たちの意気地のなさに苛立ちを覚えた。そうしてる間も空腹感は消えない。ションベンは2ccほどちびった。ぼくは無意識に鼻をほじった。掘り出した鼻くそを、食べた。しょっぱい。一時的に空腹を忘れた。そして、次の瞬間体の奥のほうから活力が漲ってくるのがわかった。エネルギーを充填したぼくは、勇気を出して缶に向かって疾走した。そして、思いきり缶を蹴り上げた。
 
あのころ、ぼくらには、食べ物としての鼻くそがあった。
鼻くそはタダだ。食べたい時に食べられる。店屋で金をだして高給料理を食べる必要などない。
右の鼻の穴が枯渇したら、左の穴だ。水分だって取れる。水飴のように延ばすことだってできる。
断言できる、鼻くそを食べなくなったとき、ぼくらは大人になったのだと。そして同時に、消費至上主義者に成り下がったのだと。
労働は金のため、余暇に消費で満足感を得るため、外食するため。それが間違いであることに気がついた。消費も労働も人生においてぜんぜん重要じゃない。
会社を辞めて、鼻くそを食べよう。恥ずかしがることはない。不衛生ということもない。何故なら鼻くそは自分の鼻の中でこしらえた、完全無欠の自家製造の栄養源だから。
鼻くそを食べ続ければ餓死しない。反対に鼻くそを食べないということは、生きる意思を捨て去るということだ。
鼻くそを食べよう。そして、消費社会に別れを告げよう、労働ともサヨウナラだ。
ぼくに、鼻くそを、さもなくば死を。