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走ることについて語ること

帰宅は8時過ぎ

昨日より一本遅い電車に乗った。帰宅は8時を過ぎる。しかし、昨日述べたように私は時間に拘泥しない。全ての習慣は、これは悪習と考える。だから、帰宅してからジョギングに出る可能性について、私はこれを否定しない。いくら寒波が押し寄せても、雨が降ろうが、風が強くても、一度意志したことは決して曲げない。

 

走ろうかなって、思っている

なぜ走るのか、ということを皮相的に説明するのは簡単だ。来年3月のマラソン大会に出るために練習しなくてはならないからだ。また、フットサルのパフォーマンスを向上させるために基礎体力を上げる必要があるからだ。
 

今日ですか? 走りますよ…。

しかし、走ることの本義を説明するのは難しい。なぜ走るのかと問われてもうまく返答できない。なぜ走るのかを自問しても、うまい答えは思い浮かばない。走るのは気持ちいいから、タイムが早くなると嬉しい、流行だから、健康増進のため、走ることで自分に向き合えるから、極限まで肉体を追い詰めることで自己をより高みに上げ新しい自分を発見することができるからなど、本質的ではない答えはいくつか用意できる。
 

ちょっと今日は…

私だけが走る理由を説明できないわけではない。
村上春樹は著書『僕が走ることについて語る時に僕が語ること』のなかで、走る意義を以下のように述べている。•••箇所は中略。世界的な作家でも、なぜ走るのかについてうまく説明できていないことがわかる。走ることを語ることに村上が失敗しているようにみえるのは、村上が走ることについて言葉を持たないから、というわけではない。走るとはすなわち語ることができないことであり、走る理由を説明するのも不可能であり、だからこれは私が今日帰宅してから走ると小さな宣言をしたものの、帰宅後に翻意して走るのをやめたとしてもそれは私が嘘つきというわけでは全然なくて、つまるところ走ることについて何かを語ることの不可能性に直面しただけのことで、私が走るあるいは走らないについて何か確定的なことを言ったように誰かが読み取ってもそれはその誰かの誤読であり、私に非はないということは念の為指摘しておく。
僕が走るのは、•••うん•••こ•••する•••ため•••だ•••よ•••〜•••〜ん。(『僕が走ることについて語る時に僕が語ること』)

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

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