日本人なら知っておくべきエアー出勤のこと

この先輩はいったい何を言っているのだろうと思ったので、報告させていただきたく。

 昼ごはんを食べてネットサーフィンに興じているとき、隣に座っているアルバイトのお嬢さんが私に話しかけてきた。
 先週末、東北旅行に行ったときに買ったお土産があるので、袋の中から1つ選んでくれという。
 袋の中には小分けにされた味噌やご当地のカップラーメンやお菓子類が入っていた。私は、正直言って余ったものでよかったので、そばにいる先輩に先に選んでもらった。
 するとその先輩は、味噌の小袋を摘み上げて私に言った。
 「仕事中に舐めれば眠気を撃退できるんじゃない?(笑)」
 私はこれを聞いて絶句した。
 通常、味噌は、そのまま舐めない。また、もし舐める習慣があっても業務中に舐めることはしない。また、もし業務中に舐めるタイプの社会人であっても、睡魔をやっつけるために舐める人は、いない。
 いや、私はそんなことを順序立てて考えたわけではない。
 
 「この味噌で睡魔を撃退できるよ」というような意味のことを言った先輩を尾藤さんという。
 この尾藤さんは、おそらく現代の日本の勤め人の中で、もっとも最先端の働き方をしている人といえる。
 端的に言って、業務中、いつも寝ている。

「眠りの尾藤」の異名を持つ偉大な先輩は、業務時間のうちの7割から8割を睡眠に充てているといっても言い過ぎではない。
8時間労働のうち、5時間から6時間は居眠りをしている計算になる。もちろん無駄にサービス残業をするので、実際はそれ以上の居眠りをしている。
社長、社長夫人、アルバイトの子を含めて総勢7人の従業員が狭い事務所で机を並べているので、誰かが居眠りをしていたりネットサーフィンをしていれば、いやでも視界に入る。だから尾藤さんの居眠りも全従業員が認知している。

社長は、眠りの尾藤さんについて、「病気なのかな」と心配しているようだ。しかし、尾藤さんの生活スタイルを知っている私は、病気ではなく寝不足が原因であることを知っている。尾藤さんは、毎晩夜更かしをして、床に就くのはいつも朝3時か4時だ。そして8時に起床する。
サッカー狂の尾藤さんは、週末だけでなく週日もサッカー観戦をしているため、どうしても就寝時間が未明になってしまうと以前ぼやいていた。というか、なぜか不思議なほどハイテンションで自慢げに自分がサッカー狂であることを吹聴していた。

普通の会社ならば仕事中の居眠りなど言語道断なのだろうけれど、小さな出版社で根っからの出版人である三島さんは、社長というより、無頼の香りがする文化人のような人だから、あまり細かいことは言わない。ネットサーフィンや居眠りなどでいちいち社員を怒らない。注意ひとつしないのだからたいしたものだと思う。社員は、そのようなゆるゆるな社風を思う存分享受している。遅刻もし放題だ。
しかし、そうは言っても、自由すぎるからといってすべてのたがを外して欲望を駄々漏れにさせるのは、さすがに気が引ける。社会人として、人として、やって良いことと悪いことの線引きは、しなければならない。「遅刻は3分まで」、というのが私が自分に課しているルールだ。「ネットサーフィンはスポーツサイトとSNSだけ」にしている。たまに、旅行サイトなどをのぞいているがそれはイレギュラーだから、許容範囲内といえるだろう。基本線は守りたいと強く思っている。

私は、欲望のままに快楽に耽るのはハシタナイと思っている。ほとんどの社員は、少しだけ意志の力を発揮して、駄々漏れになりそうな欲望を自制しようと努力しているように思う。
他方、眠りの尾藤さんは眠り続ける。眠ければ、寝る。おそらく、最初期はいくら尾藤さんでも、睡魔と必死に格闘していたのだろう。誰だって昼食後は眠くなるものだ。眠気に襲われたら、コーヒーを飲んだり、席を立って伸びをしたり、タバコを吸ったりして、睡魔を追い払おうとする。尾藤さんだってそうしていたはずだ。
しかし、私が知っている尾藤さんは、すでに睡魔と闘う意思など絶無だった。午前10時に寝ている。午後2時にも寝ている。終業後の午後6時も寝ている。「家で寝やがれ、こんちくしょう」と思ったことも1度や2度ではない。ゴングが鳴った瞬間に全力でキャンバスに倒れこみ、レフリーに10カウントを哀願する尾藤さんしか私は知らない。
最初はそんな先輩を見て、少しだけ驚いた。そして、「こいつ、何でいつも寝てやがるんだ」と怒りの感情も湧いた。しかし最近はそのような感情は皆無だ。尾藤さんが寝ていると、安心するのだ。今日も一日変わらず平安だなと。逆に尾藤さんがせわしなく働いていたり、キーボードをカタカタたたいたりしていると不安になる。何をそんなに働いているのだ、私も他の先輩も暇を持て余しているというのに、どこにそんな仕事があるって言うのだ、独り占めしやがって、こちらにも少しまわしてくれ、と思ってしまう。

尾藤さんの存在感はトリッキーだ。有給休暇などで尾藤さんが休みの時、不思議な感覚を覚える。そこに、尾藤さんが不在である時、不思議と尾藤さんの存在を感じてしまうのだ。いつも寝てばかりいて在席はしているものの存在感が希薄だと、いざ不在の時、いつもどおりの「不在性」があたかも尾藤さんの存在を感じさせるのだ。いる時にいない感覚が、いない時にいる感覚を私に感じさせるのだ。

尾藤さんは、真に革新的な社会人だと思われる。通常、趣味や資格の勉強、遊び時間を捻出するために、人は睡眠時間を削る。
資格取得に向けて1日1時間勉強すると決めたとする。大半の人は、いつもより1時間就寝時間を遅くするか、朝1時間早く起きて勉強時間に充てる。当然、睡眠時間が減った分、眠気や疲労が蓄積するだろう。1時間程度ならば、日常生活にあまり影響が出ないかもしれない。これが2時間、3時間となると、悪くすると体に障るかもしれない。そして、勉強を諦めて、生活を元に戻すかもしれない。しかし、尾藤さんの場合は常人とは違う思考回路をしているようだ。1時間といわず、3時間といわず、夜の睡眠時間など盛大に削ってしまえば良い。削られた睡眠時間は、日中の業務中に埋め合わせれば良いのだから。
逆転の発想だった。普通の人は、削られた睡眠時間を別の機会で取り返そうなどとは考えない。週末に「寝溜め」する人はいるだろう。しかし尾藤さんに言わせれば、そのような人は4流だ。失った睡眠はすぐに取り返すのだ。自分にとって適切な睡眠時間が8時間だとして、前夜に5時間しか眠れなかったのならば、仕事中に3時間分居眠りして取り返す。奇抜な発想過ぎて、感服せざるを得ない。尾藤先輩はすごいなと関心すると同時に、こうはなりたくないなと思わせる、稀有な存在だ。

そんな彼に「眠いときには味噌を舐めればいいじゃない」というような意味のことを言われて私はもうどうしていいかわからなくなった。私は一度も居眠りしたことがない。
尾藤さんは、どうも周りの皆に居眠りしていることがばれていないと思っているらしいのだ。なぜそういう風に考えられるのか私にはわからない。狭い事務所で居眠りをして、誰にも気が付かれないと考えられるのはすごい。本当にナルコレプシーなのかもしれない。あるいは、「誰にも指摘されないということはすなわち誰にもばれていない」というポジティブなシンキングをしているのだろうか。不思議でならない。私もあと1,2年働けば尾藤さんのような超人になれるのだろうか。ちょっとそうはなりたくないなと思った。