心にナイフをしのばせて

酒鬼薔薇」の事件がおきる30年前にサレジオ高校(神奈川県)で起きた「高校生首切り殺人事件」を扱ったノンフィクション。
被害者家族は、精神崩壊寸前の母、耐え忍んでやっと平静になりつつあったところで癌死した父、うまく感情をコントロールできなくなった妹など、数十年たっても兄の死を乗り越えられずにいる。一方で、加害者のAは「更生」し、有名私大・大学院に進学し弁護士になっていた。
酒鬼薔薇」事件後に執筆された本書は、加害者に対しては手厚い保護・援助がなされるのにもかかわらず、被害者遺族へはなんの保障もされず、人権を蔑ろにされている現状を告発した。本書出版後、犯罪被害者保護が進んだという意味で奥野の功績は大きいとされている。
刊行後、被害者側の意見ばかりで、加害者側への取材が足りないという批判が出たという。それに対して奥野は、理解できないと当惑する。このような異常な事件が起きたとき、ジャーナリズムは加害者の心を忖度しようとする。他方、被害者の心を理解するということはあまりされない。奥野は強い義侠心にかられて本書を書いたのだろう。「立派に更生」して地元の名士となったAと、今後も回復することがないであろう、被害者家族の落差に、司法の歪みをみた。そして、被害者の怒り、憤り、絶望、当惑が少なからず奥野にも伝播したのだろう。彼は司法の歪みを正す、というジャーナリストとしての使命とは別に、Aに対して復讐心に似た気持ちを持ったように思う。
心にナイフをしのばせて生きてきた、被害者の妹・みゆきは、いつかAと「決着」をつけたいという。それは決してナイフで刺すということではない…・・・。

奥野は加害者とその家族の人権を考慮し、Aとその周辺への取材は極力避けた。
本書が出たあとさまざまなところで大きな反響を呼んだ。それが理由かは定かではないが、Aは妻と離婚し弁護士も廃業した。あるいは、奥野の本意ではなかったのかもしれない。しかし結果的に、『心にナイフをしのばせて』刊行でAは社会的な制裁を受けることとなった。奥野のペンがナイフとなってAの胸に突き刺さったのだ。

心にナイフをしのばせて (文春文庫)

心にナイフをしのばせて (文春文庫)