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「僕が職場で死んだら」

僕は現在「編集部」に所属している。先月までは「経理部」に所属していた。編集部は、経理部から歩いて10分の距離にある。行き来するにはちょっと面倒くさい距離だ。ただ、編集部は天国だ。編集部に所属しているのは組版の名越君(23歳)、編集の富樫さん(25歳)、組版の田ノ上さん(26歳)の 3名だ。そこに編集兼雑務担当の僕(28歳)が加わった。編集部は若手社員で占められており、仕事場の雰囲気は非常に落ち着いている。過ごしやすい。上司というような人間は一人もいない。私語や飲食は自由。そして昼にはきちんと昼休みがあり、定時を過ぎたら周りの顔をうかがうことなく帰宅することができる。当たり前といえば当たり前なのだが、先月まで所属していた経理部ではそんな当たり前のことができなかった。

経理部には、社長がいた。局長がいた。そして社長の弟がいた。社長はいつも怒鳴り散らし、「ふざけんじゃないわよ!」「全部あんたの責任でやりなさいよ!」「頭おかしいんじゃないの!」「辞めてもらって結構よ!」と社員を罵倒していた。72歳の老婆が気が触れたようにヒステリーを起こす姿は、非常に醜く、周りにいるすべての人間の生気を奪う。だから社員の出入りがとても激しい。入っては辞め入っては辞める。それの繰り返し。社員は社長にぶち切れ罵り合いをして退職する。僕が入社した当初、離職票を発行してもらえず毎日会社に電話してきた元社員の女性がいた。かわいそうだが僕には何もできない。そういう会社が世の中にはある。労働基準法などお構いなしだ。

10年目の恩田先輩(40歳)は胃潰瘍と十二指腸潰瘍を併発したという。4ヶ月恩田先輩の横にいた僕は、そりゃ併発するわなと得心した。社長は気に入った人間を厚遇する。具体的にいうと、身内と一部の女性社員特に新入社員の竹中さん(30歳)。竹中さんは僕より半月入社が早い。編集担当。既婚者。美人。推測するに、社長は容色の良い人間が好きだ。それは自分があまり見た目が良くないことが理由だと思う。社長は性格が下劣だから顔立ち異常に醜い人間に見える。僕はあまり人の顔立ちについては意見を言いたくないが、この会社の社長について語る時には、もはや自制心というものが働かなくなりつつある。「罪と罰」を思い出す。社長は、ラスコーリニコフに殺された卑劣な金貸し老婆のようだ。もちろん、僕はラスコーリニコフではない。有能な人間ではないし、「偉大な人間は、自分の邪魔立てをする下等な人間を排斥しても良い」という考えを支持しない。僕はできる限り社長にかかわりたくないと考える。会社に所属している社員がいう台詞ではないかもしれないが。

経理部は地獄だった。社長が来たら立って挨拶をする。茶番。しなかったら罵倒される。恩田さんと僕だけが怒られる。竹中さん(美人)は別に怒られない。僕は新入社員だから度外れた叱責はされない。ただ、理不尽なことは100回以上言われた。雑誌の在庫数を出せ(そんなの知らない)だの広告関連全部担当しろ(まったく把握してない)だの土曜日に倉庫(車で2時間)に行って片付けしてこいだの週末休んでたら、「誰が土曜日休んでいいって言ったのよ!」と言われたり、早く請求書を発行しろといわれ苦心しつつ発行し印鑑をもらいに行ったら難癖付けられ結局印鑑を押してもらえず、机の上においておいたらなぜ印鑑を押してないのよと切れられる始末だ(ほぼ毎回)。元社員の西村さんは、「あいつ、ボケてるから」と痛罵していた。恩田さんは、「忘れたふりをしているだけ」と言っていた。どうも、両方を使い分けているようだ。都合のいいことは覚えているし、悪いことは忘れたふりをする。ずるい人間だ。経理部にいたときは本当に気が滅入った。食欲がわかない。昼飯を食べる気が起きない。というか昼休みがない。夜は遅くまで働かされる。遅く帰宅して、夕飯を食べる気が起きない。ひどい環境だ。恩田先輩が10年間で5回も辞表を出すわけだ(受理されない)。
それに比べて、編集部の自由さと来たら! 天国だ! 昼休みあるし。昼飯が喉を通るし。仕事が終われば帰れるし。
他の編集部の人間と僕が違うのは、僕が一度は経理部に所属していた点だ。つまり、社長に「絡まれた」経験があるということだ。一度社長に絡まれると抜け出すことは不可能とは元社員の村田さんの言だ(現在アルバイトで就労。社長だか局長だかともめて去年退職)。土曜日、突然経理部の恩田さんから内線があった。「タイムカードの件で話があるから社長が来いって」。僕はそのとき急ぎの仕事をやっていた。だから徒歩10分も離れている経理部に行くのが面倒くさかった。しかも、難癖を付けられるのは目に見えている。ただ行かないわけにはいかない。僕は「あいつ、超めんどくせえ」と呟き憤慨しながら席を立った。それを聞いていた村田さんは「あいつとか言っちゃった(笑)」と苦笑いしていた。僕は10分かけて経理部に行った。靴を脱ぎ竹中さんに挨拶もせず社長がいる部屋をノックしノブをひねった。施錠がしてあった。僕はドンドンとドアを叩き、ノブをガチャガチャとひねった。たぶん、半分切れていたのだろう。喧嘩腰だった。部屋の中から応答はなかった。竹中さんに「社長は?」と聞くと、「お昼かなぁ」ととぼけた答えが返ってきた。人を呼びつけておいて昼飯に出るとは。僕はプッツンしかけた。社長の携帯に電話した。繋がらなかった。一緒にいると思われる局長に掛けた。案の定、一緒に昼食を摂っていた。曰く、列車の遅延証明は無効。9時出社ということは8時半には会社にいなければいけない。9時に出社しようなんて考えるから列車の遅延で遅れる。それは認めない。相変わらずの理不尽さ。
その後編集部に帰ってひたすら不貞腐れた。早く転職活動しなくては。