本当の職場の話をしよう

先週の火曜日、私は定時(18:00)に退社した。この会社に入社して以来初めてのことだ。私や他の平社員は、9時から18時が就業時間だ。しかし、18時に帰る人間は一人もいない。社員の半分は19時以降まで残る。そして残りの半分は、17時過ぎには帰る。17時に帰る人たちの出社時間はまちまちだ。9時に来る人もいれば、11時に来る人もいる。とてもフレキシブルな働き方だ。彼らは役員のような立場にある。社長の姪(名義上の社長)、社長の妹の夫、社長の弟。皆、自由を謳歌している。朝なんとなく出社し、昼飯を食べ、雑談などをして日が暮れたら退社する。一体何しに会社に来ているのかわからない。平社員の私たちから見たら非常に迷惑な存在だ。と同時に、希望の星でもある。私もいつかああなれるのだと考えたら、気合も入るというものだ。今は苦しい下積み時代だが、これを耐えしのげばきっと輝かしい重役出勤の日々が手に入るはずだ。

で、定時退社した私は、自宅とは逆方向の電車に乗った。10分後、私はある下町の駅で降車した。そして10分ほど歩いたところにあるホームセンター「コーナン」に入店した。私が目下抱えている最重要案件のうちの一つをここでやり遂げなければならない。
現在、私は出版社に勤めているのにもかかわらず、「編集」や「進行管理」などを任されていない。今、任されていないし、おそらくこれからも任されることはないような感じだ。編集関係の仕事は、基本的に(若い)女性が担当するのがこの会社の方針であるようなのだ。入社してからこのことを知った。著者とのやり取りは、女性の方が何かと都合がいいというのが、社長の考えのようだ。では、男性社員は何をするのかといえば、様々な業務に携わることが出来るといえる。総務全般から書籍・雑誌の発送、書店や取次店とのやり取り、データの管理、書類作成、名簿録作成、ゴミ捨て、クイックルワイパー、便所掃除、洗濯、食器洗い、車の運転などが主な業務だ。俗に言う雑用である。また社風が、「女尊男卑」なので社長にどやされるのも私たち男性陣の大切なお仕事だ。
まさか、出版社に入ってこのような仕事をする羽目になるとは思ってもみなかったが、それでもいつか出世する時まで、耐えてもいいかなと思っていたりもする。

で、ホームセンターである。
私はここに「玄関シート」を買いに来たのだ。事務所(マンションの一室)の入口を入ってすぐのところに敷く、シートである。私はそれを買いに来た。定時に仕事を終えて。家とは逆方向の店まで来て。世間では、「玄関シートの購入」を甘く見ている人がいるようだが、そのように考えているのは全くの素人である。玄関シートの購入は一朝一夕で出来るものではない。私はこの問題に3週間以上悩まされてきたのだ。最初に「寸法」に悩まされた。1m×1mならばどこの店にもあるのだ。しかし、私がほしいのは1.7m×1.4mなのだ。それがないのだ。私は、週末を使って様々なホームセンターを渡り歩いた。そしてついに自宅近くの「コーナン」に1.8m幅の商品を発見した。幅は1.8mで固定し、欲しい分だけ購入するタイプのものだ。これで「寸法問題」はクリアした。次は、「材質」だ。基本的に、材質は2つだ。カーペットタイプかなんかツルツルのやつ(アクリル樹脂?)。これには本当に頭を痛めた。他の社員にも相談したが、先輩諸氏はまったく相談に乗ってくれない。社長に聞けという(この問題にあまりかかわりたくないようだ)。それはそうなのだが、社長は1日のうち、1時間ぐらいしか社内にいない。それを捕まえるのが非常に難しい。やっとこ捕まえて聞いても、「どっちでもいい、あんたが決めなさい」と言われてしまった。これは危険な事態に陥ったことを意味する。数日前にある先輩社員から「独断はダメだ。なぜなら社長や社長の弟は、人が決めたものに対してネチネチと批判を加えることを楽しむタイプの人間だからだ。君が変な物を買ってきたら必ず攻撃される。しかも玄関を入ってすぐのところにあるものだ。毎日出社のたびに言われるぞ」
私はこれを聞いてから7日間、一睡もできなかった。そして7日連続で下痢をした。ナーバスになっていたのだ。その先輩のアドバイスを受けて私は社長に判断を仰いだのだが、逆に独断でやれと言われてしまった。追いつめられてしまった。
「寸法」、「材質」に加えて、「色」の問題もあったが、もはや誰にも相談できないでいた。入社して1カ月の新入社員には、荷が重すぎる仕事だと私は思ってしまうが、甘い考えなのだろうか。この時期、正直言って、辞表を出そうかなというところまで追い詰められていたように思う。
私は途方に暮れていた。コーナンで商品を見定めていた時も上の空だった。「どうでもいい」と思ってしまっていた。私はなぜ玄関シートなどでこうも気を揉んでいるのだろう。そもそもなぜ私が玄関シートを買わなくてはならないのだろう。編集や進行管理をやらせてはくれないのか。段々、腹が立ってきた。「玄関シートってなんだよ」と毒づいていた。玄関シートの選び方なんてしらないね。
私は、陳列されていた商品の中で一番価格が高いものを購入した。会社の金を少しでも多く浪費したかったのだ。会社に対するささやかな反抗だ。シートを床に固定するための両面シールも購入してやったりもした。総計4032円。多少溜飲を下げたが、何か空しいような気持にもなった。本当に私は社長になれるのだろうか。社長になるまでの道のりが千里にも二千里にも思えて少し絶望的な気持ちになった。