「走ってる。」

暮れ。忘年会。居酒屋。会社の同僚とその家族・友達など総勢15名が参加した。薄暗がりの座敷で、僕は隣に座った25歳の先輩社員と喋っていた。その人は一人暮らしで、エアコンのない部屋はひどく寒く、毎晩熱燗を飲んでフトンにくるまって寝ていると言っていた。ストーブは?と僕が聞くと、ストーブはないけど電気カーペットはある、今年の冬は寒いらしいからストーブの購入を考えてるけどまだ迷っていると言っていた。中古のストーブなら2、3000円じゃん、そんくらい買えんじゃんと思ったけど、口には出さなかった。
宴会が始まって一時間ほどたつと僕はもう帰りたくなっていた。だいたいこういった会合・宴にはあまり出席しない。だけどまあ社会人1年目だし、付き合いってものも多少は大事にしなきゃと思いいやいや参加した。僕以外の参加者はだいたいにおいて宴会好きの人たちで、皆キチガイみたいにはしゃいでいた。僕以外にも、こういった集まりは金輪際参加しねーよと言った雰囲気をだしている人がいた。端っこのほうで烏龍茶をちびちび飲んでいるその人はスザキサンと言って前にうちの会社で働いていたことがあるらしい。誰に誘われてきたのか知らないけど、誰とも話さず酒も飲まないでひたすらテーブルの木目を見つめているなら来なけりゃ良いのにと思ったけど、僕も同類だからまあなんていうか猛烈にシンパシーを感じた。その人は25歳くらいで、僕の昔の友達にとても似ていた。僕の友達は今は何をしているのか知らないけどコンビニ(ファミマ)のオーナーになるべく研修を受けていたんだけど、あまりの激務に一月で根を上げて今は無職でハローワーカーらしいということを風の噂で聞いた。誰かがスザキサンは今は無職だということを言っていたのをさっき小耳にはさんだ。まあ確かにどちらかと言えば無職的な雰囲気を出していた。僕も一時ハローワーカーで、またすぐにでも無職になりそうな身だけにそういったことにはちょっとばかし通暁している。
酒がまわり始めた参加者の中にはひたすら目立ちたがる輩が出てきて、せっかくそれぞれが2、3人で楽しく話していたのに、そのバランスを乱すばか者がチラホラ現れ始めた。そういったやつはたいがい誰だか分からない奴で、いったい誰の知り合いだよって感じのバカたれだ。テーブルをはさんで対角線の端にいたスザキサンに話し掛けたのもそんな、お呼びでない低脳の頓馬な男だった。スザキサンの知り合いではないが知り合いの知り合いだったらしいその男が、嘲りの気持ちも込めてだろう、「スザキサンって今何やってるんですか?」と聞いた。その場にいたほとんどの人がスザキサンが職についてないことを知っていた。勘だけど、おそらく聞いた方もそのことは知っていたんじゃないかと思う。だからなんとなくその場の雰囲気も重くなって僕以外にも何人かはその男に不快感を感じていたと思う。少し苦笑いをしたスザキサンは、視線を動かさずに小さい声でボソッと、
「走ってる。」と言った。
走ってるって?
マラソン?
ジョギングしてるの?
と誰かがニヤニヤしながら聞いた。
「そう。」とスザキサンが言った。
その場にいた多くの人が笑らった。何人かは爆笑していた。誰かが、北京オリンピックでも目指してるの?とからかった。スザキサンは何も言わなかった。烏龍茶を飲んでから中断されていたにらめっこに戻った。
誰かがスザキサンのジョギングに対して二言三言つまらないジョークを言ってから、別の話題に移った。
僕は一人強烈に衝撃を受けていた。走っている。誰かに、今何やってるの?ときかれたら、それはほとんどの場合職業を聞かれている。だからこの場合も、フリーターとかアルバイトしてるとかいった受け答えが常識的なものだったはずだ。しかし、スザキサンは「走っている。」と言った。もちろん職業的なマラソンランナーであるはずもなく、企業ランナーでもない。趣味で走っているだけのいわゆるジョガーだ。それなのにスザキサンが「走ってる。」と答えたのは、スザキサンの中で走ることが自分の中で大きなウェートを占めていると言うかほとんどすべてだったからそう答えたんだと思う。プロスポーツ選手に、「あなたにとってサッカー(バスケ、スキー、野球・・・)とは何ですか。」といった質問がされて、「すべてです。」と答えるインタビューを良く見かける。これはまあわかる。だけど、無職のジョガーが、走ることがすべてですってことになると常識人のぼくはちょっとうろたえてしまう。これが例えば、社会人(=生活していくに足る収入のある人)で、趣味はマラソンといった類の人なら話は違う。そういった人が、マラソンは私のすべてです。走ることをやめたら生きていけません。といったところで、それはその人の最大の趣味がマラソンなだけで、別にマラソンに全身全霊をかけているわけじゃない。だけど、スザキサンは、結果的にかもしれないけど、時間(本来働くべき時間にマラソンなんか走ってる)・体力(本来労働して消耗すべき体力をマラソンなんかしてくたくたになってる)・金(本来労働をして得るべき収入をマラソンなんかしてるから収入なし)をなげうってまで、マラソンを走っている。まさに職業的なジョガーだ。これはどう考えても感動的じゃないか。そんな人間に向かって、なにが「オリンピックにでも出る気ですか?」だ、ふざけるなって思った。僕もスザキサンみたくなりたいと思った。マラソン走らなきゃって思った。ってことで「青葉ランニング倶楽部」を創設した。目標は河口湖マラソン。とにかく景色が良いらしい。やっぱこのご時世走らなきゃ何も始まらない。