旅行記 14日目 (チェンマイ)

チェンマイ駅のホームにはすでに、ぼくが乗るべき列車が停まっていた。時刻は13:30。発車まで3時間以上ある。ぼくはホームにあるベンチに座った。バックパックは手荷物預かり所に置き、斜め掛けのバックと手にはペットボトル入りの水を持っていた。気温は30度を超えていた。汗が滲んだ。チェンマイ駅には4つの列車が停まっていた。どれもずいぶん前から停まっているように見えた。ぼくはこのベンチでひたすら待とうと思った。

チェンマイ駅に向かったのは昼前だった。宿をチェックアウトし、近くのレストランに入った。ぼくはそこでパイナップルジュースを飲みチョコレートケーキを食べた。食欲はなかった。あさもほとんど食べていない。ジュースを半分ほど飲みケーキをほぼ間食するとぼくはトイレに向かった。昨日、一昨日と腹の調子が悪い。不思議なことに、食物を摂取しなければしないほど、腹を下す頻度は増えた。だからぼくはなるべくものを食べるよう心がけていた。おかしなことに、甘いものやスナック菓子の類を選んで食べていた。日本にいるときはそういったものをほとんど食べない。日本で罹った病気とは、まったくちがうなとつくづく思った。体調は一時回復したかに見えた。しかし、どこかおかしい。退院後の腹痛。食欲の減退。そして相変わらずの咳。病院に行くほどではないが、明らかに病持ちだ。レストランを出ると、発車時刻にはまだだいぶ時間があるが、駅に向かうことにした。
駅に着き近くのレストランに入った。そこでコーヒーを飲んだ。時刻はまだ13:00だった。身動きするのが億劫だった。しかし目の前のテレビから流れる音が鬱陶しくぼくは駅舎に戻った。ぼくはひたすら、駅のホームで待とうと決めた。
ぼくは乞食のようにベンチに横になった。そのほうが楽だった。口に水を含みあとはただ空を見ていた。
1時間ほどして、吐き気が襲ってきた。ぼくはトイレに向かい、悪臭のする便所の個室に入った。胃液を少しだけ出した。ぼくはベンチに戻った。そのあと2回ほど、トイレに行った。そして、そのつどえずいた。3度目の嘔吐をしベンチに戻るとき、売店の横を通った。そこでぼくは「プリングルス」を、見つけた。無性に食べたかった。(なんでこんな油っぽいものを食べたくなったのだろう。)しかし現金の持ち合わせがほとんどなかった。ここで「プリングルス」を買ってしまったら明朝バンコクに着いたときタクシーやトゥクトゥクを使ってカオサンに行くことができない。ぼくは我慢してまたベンチに横になった。ひたすら待った。ぼくの乗る列車は、社内清掃をしていた。ベンチは寝心地が悪かった。蚊がまとわりついてきた。発車まで1時間以上あったが、ぼくは列車に乗り込んだ。自分のシートにへたり込み、扇風機のスイッチを入れた。まもなく制服に着替えていない、車掌らしき男が近づいてきた。チケットを見せろといわれて、ぼくは見せた。すこし不服そうな顔をしていたが、何も言わずぼくのそばを離れた。

16:30列車が動き出した。
ぼくの向かいには50代の女性が座った。日本人だった。通路を挟んで向かい側の席にはその娘らしき20代前半の女性とそのボーイフレンドの白人男性が座った。発車後すぐに母親が話しかけてきた。タイに来てどれくらいかなど他愛もない話題だが、それをきっかけに雑談することにした。扇風機にあたって休んでいたせいか、体調は良くなっていた。ぼくは娘夫婦とはほとんど話さず母親とひたすらしゃべった。ぼくが脱サラしたことを言うと、「合わなかったの?」と言ってきた。今までに80回は同じ質問を受けた。ぼくは「ええ、まあ。」と適当に答えた。その後も気候のことや海外旅行のこと、タイのどのへんをまわったかなどを話し、時折笑いももれた。娘夫婦は、おそらくこちらの会話を聞いていた。白人の旦那(後にチェコ人だということを母親から聞いた)は2年間日本にいて(3人の会話を盗み聞いた)多少リスニングができるらしい。時折2人が会話を止めこちらの会話に聞き耳を立てているのが分かった。
7:30になって、母親が「昨晩は良く寝られなかったの。ちょっと早いけどベッドを準備してもいいかしら?」と聞いてきた。ぼくも体調が芳しくなったので、それに応じた。
上段のベッドに上がり、ぼくは文庫本を読んでいた。夏目漱石『それから』。話の内容はこうだ。資産家の父を持つ主人公大助は、30歳を過ぎているが働きに出ていない。東大を出たインテリの大助は、父から小遣いをもらって一軒家に住み女中と書生を持ち、はたから見れば悠々自適な暮らしをしていた。細君はいなかった。彼はよく本を読み、芝居にも出かけた。それこそが知識人としての自分の仕事だと言わんばかりだった。書生もまた暇人だった。勉強もせずただ先生(大助)の身の回りのお世話を唯一の仕事としていた。ある日地方で働いていた昔の友人(平岡)が東京に帰ってくることになった。彼には細君(三千代)がいて、3人は昔からの友人だった。大助は冷静である種の諦念をもった人間だった。社会の掟に背く人間ではなかった。しかし、彼は三千代に恋をする。人の細君に手を出すことは、現代とは比べものにならないほどの大きな罪だった。しかも友人の細君に。そして大助は悩み、ついに平岡と膝を突き合わせて話し、事情を説明する。平岡は承知する。しかし今三千代は体調が悪く、回復したあとでなければ逢わすことはできないと言う。大助はそれに賛成しかねる。美千代の容態は悪く、死骸だけを見せるつもりなのだろう、と平岡に詰め寄る。しかし平岡は譲らない。平岡と会見した夜、大助はひそかに平岡家に出向く。しかし家の前まで来て、結局は美千代に会うこともせず(できず)自宅に引き返す。帰宅後兄と対談。兄は平岡から全部聞いていると言い、おまえは変わった奴だが、ここまでとはと呆れる。父も勘当すると言っており激高していることを告げる。毎月の小遣いも中止する。兄と弟の関係も解消する。家のものはみんな泣いていると大助に告げる。大助は悄然とし、ただ黙る。兄が帰るやいなや大助は帽子をかぶり、書生の門野にこう言う、
「門野さん、ぼくはちょっと職業を探しに行って来るよ。」
大助は道を歩きながら、人にも聞こえる声で、
「ああ動く、世の中が動く。」
と言った。
大助が見る世の中のすべのものが赤く見えた。
話しはざっとこういう具合だ。そしてぼくはこの話を読んで『ボヴァリー夫人』に似ているなと思った。話の内容はこうだ。
フランスの片田舎に住む医者夫人のエンマ・ボヴァリー。彼女はお人よしの旦那(シャルル)に愛想を尽かし、方々で浮気をする。そして振られる。そののちストレスからか、散財してしまう。最初のうちはうまくごまかし、旦那に借金のことをばれずにいた。しかし、ついに自宅が差し押さえの危機に直面する。もう終わりだ、そう考えたエンマは知り合いの薬屋の倉庫に忍び込む。そこで砒素をのむ。失恋による自己喪失。発狂。自殺。数時間後、発見され治療を受けるも実らず死亡。お人よしの旦那は意気消沈。エンマが死んで数日後、彼は藤棚のある庭にいて椅子に座っていた。その日は好天気だった。彼の手にはエンマの頭髪が握られていた。かれは死しんでいた。原因不明の死。その後、ボヴァリー家と付き合いのあった、利己的な偽善者は軒並み社会的成功を収める。エンマは死んだ。シャルルも死んだ。彼らのあいだには一人娘がいた。まだ幼かった。彼女は1人ぼっちだった。遠縁のおばに預けられた。厳しい人間だった。ボヴァリーの娘は、工場に働きに出された。
物語はここで終わる。
大助・エンマ共に恋に破れ発狂した。フローベールは言った「ボヴァリー夫人はわたしだ。」と。
それならぼくは大助になろうと思った。亭主持ちに恋をして、失恋をした後、「門野さん、ちょっと職業を探してくるよ。」なんて言って。就職のための3段跳び。まずはじめに、地方に働きに出て失敗し帰郷した友人(妻帯者)がいないか、頭の中でリストをチェックした。しかし、体調が悪くうまく集中できなかった。ぼくは友人に電話を入れた。
Truuu,truuuu,truu・・・。
ガチャ。
ジャック「CTU、バウアー。」
ナカガワ「ぼくだ。」
ジャック「・・・・だれだ?」
ナカガワ「・・・・ナカガワだ。」
ジャック「ナカガワ・・・あとにしてくれ、サンダースの手下がウイルスを持って全国に散らばっている、残りの1人がみつからない。悪いがあとで掛け直す。」
ナカガワ「いやだめだ、大事なことだ。」
ジャック「人の命よりだいじなことがあるか!」
ナカガワ「恋だ。」
ジャック「・・・恋?ふざけるな!お前にかまっている時間はない!」
ナカガワ「いや、あるね。」
ジャック「なんだと?」
ナカガワ「ぼくが最後のウイルスを持っている。」
ジャック「なにぃ!」
ナカガワ「ジャック、よく聞け。要求はこうだ。ぼくが過去に関係した人間の中から、地方に働きに出て失敗した後郷里に帰ってきた男をリストアップしてくれ。ただし妻帯者の男だ。」
ジャック「分かった、調べておく、時間がかかる24時間くれ。」
ナカガワ「いや、そんなに待てない。第一それじゃあ君の存在証明をどぶに捨てるようなもんだろ?」
ジャック「わかった1時間で調べる。」ガチャ。「チェイス!イチガータウン1145番に急行しろ!お前のいる位置が一番近い。」
チェイス「だけど、ここからでも30分はかかります、その間に逃げられるんじゃ。」
ジャック「いやそれはない!」
チェイス「なぜ言い切れるんです!」
ジャック「あいつはいつも家にいる。・・引きこもりだ。」
チェイス「Japanese NEET ?」
ジャック「そういうことだ、わかったならさっさと行け!」

場面転換。ナカガワ宅。チェイス到着。県警、自宅を取り囲む。チェイス、ジャックから突入の命令を受ける。

催涙弾。部屋中モクモク。モクモク。

ナカガワの部屋。拳銃を向けるチェイス。それを睨め付けるナカガワ。
チェイス「ウイルスはどこだ?」
ナカガワ「騙したな。ウイルスを撒くぞ。」
チェイス「お前を殺してでも阻止する。」
ナカガワ「その前に、遠隔操作でウイルスを拡散させる。」
チェイス「専用の拡散機がなきゃできないはずだ。」
ナカガワ「ばかかおまえは、あんなちゃちな装置でしか拡散できないなんてそもそもムリがあるだろ、遠隔操作くらいできるよ。」
チェイス「・・・むぅ。」
ナカガワ「ぼくはもうおしまいだ。どうせお前らに殺される。だから・・。」
チェイス「コントローラーをよこせ!そしてウイルスの場所を言え!」
ナカガワ「やだやだ。」
チェイス「言え!」
ナカガワ「やだやだ。終わりだ。あと5秒でウィルスをぶちまける。」
チェイス「やめろ!」
5・・・・4・・・・3・・・・2・・・・1、
ナカガワ「ヘックシュン!!・・・えへへ、撒いてやったぜ。」
チェイス「・・・・・・。」
ナカガワ「インフルエンザらしい、若い女医さんが言ってたよ。」
パン、パン、パン。

そこで夢から覚めた。時刻は朝の5時過ぎ。
列車はバンコクに着こうとしていた。

『日記における最大のうそは日付だ。』− 奥泉光