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旅行記 7日目 (チェンマイ)

タイ旅行

新しい宿を『ゲストハウス・ナット』にとって早々に外出の準備をした。今日は市街地から北西に4キロほど離れたチェンマイ動物園に行った。ソンテウ(乗り合いバス)に乗って、20分ほどかかった。動物園大好き。到着は11:00頃だった。動物園大好き。入場料を払い園内循環バスに乗り込んだ。動物園大好き。最初の降車ポイントはパンダ君だった。2003年から10年間を期限に中国から借受けているらしい。これは見ておく価値がありそうだ。しかし、パンダ君の檻へ行くには、新たに見物料100バーツを払わなければならなかった。熟考の末ぼくはパンダ君との邂逅を、放棄した。ぼくは入場口のまえに立てかけてあるパンダ君の張りぼてに向かって軽く謝罪のジェスチャーをし、袖を濡らしながらそこを後にした。早くも悲しい事態に直面したぼくは、力なく立ち尽くし園内循環バスを待っていた。しかし、顔を上げてパンダ君とは道を挟んで反対側に目を転じるとそこには、ライオン君の絵が描いてある案内板があった。僥倖。ぼくは矢印の指し示すほうへと必死に走った。いくつかの曲がり角を曲がった。しかし、そこにライオン君はいなかった。動物の檻など一つもなかった。そのときぼくは自分が方向音痴だということを思い出した。ポケットに磁石はなかった。持ってくるのを忘れたらしい。園内自体が一つのジャングルのようなこの鬱蒼とした危険地帯でぼくはまったく方向を見失っていた。
とにかくぼくは歩いた。狭い上り坂の歩道を歩き、いっそう深く茂ったエリアにやって来た。そこはあたりをネットで囲った、ゴルフの打ちっぱなし場を思わせるような所だった。ぼくは傍の売店を通り過ぎ(店番は寝ていた)、鎖が垂れ下がった入口をかき分けて中に入っていった。内部には僕以外他に人はいないようだった。そこには人工の小川が流れていた。上流に歩いていくと、みすぼらしい滝があった。そこからはションベン小僧のオシッコのような水が垂れ流れていた。鳥さんたちの鳴き声が木霊していた。どうやらここは鳥類の檻らしい。あたりには孔雀君やみたこともない鳥さんたちが、倒れ木の餌場に集まり、果物などをついばんでいた。ネットで覆われたこのテーマパークの中は喬木に覆われていて、顔を上げても空がほとんど見えないほどだった。完璧な擬似ジャングルだった。ぼくは、すばらしい動物園じゃないかとひとりごちた。20分ほど歩き回った。人は誰もいなかった。すこぶる楽しかった。ぼくは誰もいない出入り口から外に出て、また歩き出した。さきほど来た道とは違うほうに歩き出した。つり橋を渡り階段を上るとひらけた所に出た。そこには数台の車が止まっていた。駐車場のようだ。ぼくは駐車場脇のトイレに入り、小便をした。トイレの壁にはトカゲ君かイモリさんがはり付いていた。
ペンギンさんの絵が描いてある案内板を見つけた。ぼくは広い道を歩きながら、矢印に従って歩いた。右手に亀さんやワニさんがいるエリアが見えた。ペンギンさんは後まわしにしてそちらのほうへ向かった。しかし、そこはとてもつまらなかった。ワニのヤツも亀野郎も微動だにせず、あきれるほどの堕落ぶりだった。職務放棄もいいところだった。時間を無駄にしたと感じたぼくは、スロープを下りペンギンハウスにやって来た。内部は薄暗かった。ここにも人はいなかった。おまけにペンギンさんもいなかった。内部は改装中らしく、床には工具や板などが転がっていた。
ぼくは左手に沼沢地を見ながら、上り坂を歩き続けた。坂を上りきったところに、動物の檻があった。サル君たちがいた。5つの檻があり、15頭くらいのサル君がいた。みんながぼくを見ていたように感じた。ぼくの来園を歓迎してくれているような感じがした。みんな元気?とぼくは叫びたくなった。元気だよとサル君が言ってきたように感じた。毛づくろいしているサル君やえさをパクついているサル君がいた。一番奥の檻では、2つの木の枝に結ばれた綱をブランコのようにして遊んでいるニホンザルに似たサル君がいた。まったくナイスなホスピタリティだ。ぼくはうれしさのあまりスキップしたくなった。次に行ったのはライオン君のエリアだった。ライオンはまったくやる気がなかった。大多数の男の子は動物園に来るたびにライオンが嫌いになるのではないだろうか。その点カバちゃんは違った。ぼくが柵の前に行くと2メートルくらい下にいるカバちゃんが3頭ほど寄ってきた。皆アホウみたいに口を開けてきた。餌を要求しているようだ。手を伸ばせばカバちゃんの歯にも触れられる距離だった。もしいらない腕があったら、差し上げたいところだ。そのほかにもシマウマさん、ダチョウ君、キリンさん、ゾウさんなどを見てまわった。相当に有意義な時間を過ごした。ただ、パンダ君にあえなかったのは残念だった。

ぼくは帰りのソンテウに乗り、市街地に戻った。
またたくさんの排気ガスを吸い込んだ。この排気ガスの多さを感じるたびに、公害について勉強しようと考える。しかし、降車する頃には、その考えもすばらしいくらい完璧に霧散している。ぼくはそんな人間だ。

午後14時ごろにはチェンマイの中心地に戻ってきた。ぼくは昼食を済まし、ランドリーに洗濯物を出した。ぼくが利用しているランドリーサービスは、ツアー会社を本業としているところで、店のカウンターにはいつも3人の女性がいた。一番年嵩の女性は40代の女性で、おそらくその女性の姉妹と思われる30代前半の女性、そして20代前半の若い女性。そこの女性たちはとてもフレンドリーで、昨日昼時に訪れたときは、丁度昼飯中で、誘われてぼくもトゥギャザーさせてもらう事になった。

洗濯物を出し、ゲストハウス『ナット』に帰る道すがら、ジミーに会った。

『ナット』は大きな通りからかなり外れている場所にある。宿の前の通りは車1台がぎりぎり通れるほどの幅で、相当に奥まった所に建っている。角を曲がりその狭い路地に入ると、バイクに跨ったタイ人の中年男が日本語で話しかけてきた。「こんにちは。」ぼくは少し考えた末この男のほうに顔を向けた。ガイドブックなどの類には不審者(日本語で話しかけてくる人間など)は無視するほうがよいといった忠告が書いてある。しかし、海外旅行特に一人旅というものは、少なからず自分で「出会い」のようなものを拵(こしら)えなくてはならないときもある。もし「出会い」が欲しければ。ぼくは退屈な海外旅行を打破すべくこの怪しげな男に歩み寄った。近くに寄るとその怪しさは、喜劇的だった。小太りの中年おやじ。色つきのメガネ。ちぢれた頭髪。厚手のジャンパー。そのジャンパーのファスナー部分には「ベンツ」のエンブレムが付いていた。ぼくは吹き出しそうになった。
「トウキョー?」と彼が言った。
「ヨコハマ。」とぼくは言った。
「OH〜ヨコハマ!!」と彼は興奮し、なぜかぼくに握手を求めてきた。
彼は語りだした。
名前はジミー(愛称だろう)。母親は実業家でチェンマイ、チェンラーイに数件のゲストハウスを持っていること。そしてもしこの後チェンラーイに寄るのなら(ぼくはこの時点で次にチェンラーイに行くということジミーに喋っていた)母親が持っている会員券を僕にくれるという。そのチケットがあれば割引待遇が受けられるから。彼はたたみかけるように喋り続けた。ぼくが理解できるように、簡単な単語でゆっくり、そして何度も繰り返して。
次に彼は妹について話し始めた。妹(22)がナースであること。そしてその妹が来月、看護婦研修でヨコハマに行くということ。その妹はかなりの才女で、今回の研修に参加するナースを選抜するために受けたタイ全土の統一試験で3番目の成績を取ったこと。妹はそのことを当然喜んでいるし、家族も喜んでいるが、遠い異国に4年間も行ってしまうということが、ジミーや母親にはつらく悲しく、母親は毎晩涙を流していると言ってジミーは涙を流すジェスチャーをした。ぼくはその話に感動し嗚咽を漏らした、ということは全然なくて、当然疑った。実業家の母、ナースの妹、ちぢれ毛のジミー。出来すぎている。誰だってそう感じるだろう。「地球の歩き方」読んでるんだぜ、とぼくは心の中で呟いた。この男の目的はなんなのだろうと考えていると、
「そこのカフェでお茶しよう。」とジミーは言ってきた。
ぼくが逡巡していると、また妹の話、母親が夜な夜な涙を流していること、自分も妹がヨコハマに行ってしまうことが悲しく心配であることを喋りだした。ぼくは、カフェに行くくらいなら、いいかなと思った。なにか面白い展開があるかもしれないと思った。ぼくは彼のバイクの後部に跨った。バイクはゆっくり走り、ぼくが来た道を戻るように、角を曲がり20メートルほど走って止まった。歩ける距離じゃん。ぼくとジミーはオープンカフェの一番歩道に近いテーブルについた。彼はスプライトを2本注文した。そしてまた話し始めた。同じ話を。×2、×3、×4・・・。ぼくはそのつど「mama, cry。うんうん。」「4 years, long。なるほど。」と相槌を打った。新しい話もあった。実は今日が彼の35歳の誕生日だというのだ。おめでとう。嘘つき。ぼくはこのへんで退散すべきだったかも知れない。しかし、その後も彼の話をまじめな顔で聞いている素振りをした。そして彼は、今家では妹と母親が自分のために誕生日のご馳走を作っているのでぜひぼくを招待したいと言った。そこで妹にぼくを紹介し、ヨコハマに行ったときにはぜひもてなしてほしいと言って来た。ぼくは生返事でこれに答えた。そしてスプライトの勘定を支払う段になり、僕もおざなりに財布を出す仕草をしたが当然のようにジミーが先に金を出し支払った。当然だ。ジミーは店の前に止まっているバイクに跨り、ぼくに「乗れ。」と言った。ぼくは、乗る気がまったくなかった。もしバイクに乗って、そのまま遠く廃屋かなんかに連れて行かれたら、間抜けなヤツでは済まされない。しかしジミーは「ここから2,3分の距離だ。」と言い早く乗れと急き立ててきた。ぼくは断りきれず、モジモジした。そして、「明日にしよう。」と言った。明日またここで会おう、と言った。しかしジミーは、「明日は仕事だ。」と言って、いいから、「来い来い。」といった。モジモジ。ぼくはじゃあ歩くよと言った。家の外観を見ればそこが資産家の家かどうかわかると、考えた。(この時点では、まだ海外旅行でのすばらしい出会いの可能性を捨てきれずにいたことを、ここで認めよう。)しかし、ジミーは、それはダメだと言った。自分は足が悪いから歩けないと言った。じゃあぼくだけ歩くから、ジミーはバイクで行って、とぼくは言った。それもいけないと彼は言った。ぼくはなんだかメンドクセーなぁと思った。ちょっとイライラしていた。「じゃあ明日明日。」と適当にあしらって宿に戻ろうとした。するとジミーは「俺の言ってることが信じられないのかい?ええ?俺をリスペクトしてないのか?ええ?」っと明らかに先ほどまでとは異質の、凄みをきかせた口調でぼくに迫ってきた。ぼくは少したじろぎ、「trust you.」と言った。それでその場は収まった。ジミーはしょげ返り、サングラスの奥の瞳には涙が光っていたように見えたけど多分それはない。彼は「じゃあ、明日ヌーン(12時)にここで。」といって、ぼくに抱きついてきた。強く、一度離して再度力強くぼくを抱きしめた。
ぼくは、嫌な温もりだなぁと思った。